ドールズ―Dolls 1

written by Richiya Naitoh 2001


ニューヨークの下町に近いオフィスビルの一階の事務所で、
彼は今日もデスクに足を乗せて、安酒のボトルを抱いてうたた寝をしていた。
探偵小説にかぶれて、彼を師匠と慕ってこの事務所に出入りしている悪童達も、
今日は真面目に学校へ通っていると見える。事務所には訪れる客もなく、
ブラインド越しにうららかな春の日差しが差し込み、絶好の?昼寝日和だ。
事件がないのは世の中が平和な証拠だが、しがない私立探偵にとっては、
仕事がなくては自分の家庭の平和が危ない。妻は二年前、娘を連れて
コネティカットへ引っ越してしまったきり音沙汰がない。
彼はこの大都会で一人、安い貸事務所に寝泊りしながら、
妻子への仕送りもままならず、孤独な日々を送っていると言う訳だ。
事務所の裏の路地で、近所の子供達が鬼ごっこをしている。
彼は子供達の喚声に、丸二年会っていない一人娘を思い出していた。
田舎町の片隅で、娘もこうやって友達と鬼ごっこに興じているのだろうか。
人形の大好きな娘の誕生日には欠かさず人形を贈っているが、
顔を見ることはなかった。もう七つになる。
最後に会った時より、きっと随分と大人びていることだろう。
どの位うとうとしていたのだろう。いつの間にか子供達の騒がしい声が
聞こえなくなっていた。いや、子供の声だけではない。すぐ側の大通りの車や
通行人の声など、街の喧騒そのものがさっぱり聞こえなくなっている。
奇妙な静けさの中で、一人だけ子供がすすり泣く声が聞こえて来た。
か細い嗚咽を漏らし、しゃくりあげる声が厭に耳につく。幻聴ではなさそうだ。
「……女の子か」
彼は、面倒臭げにデスクから足を下ろした。
泣き声は次第に自分を呼んでいるような、そんな気さえして来た。
彼はだらしなく伸びた黒髪をぼりぼりと掻きながら、
デスクを回り、オフィスのドアを開けた。
「な、何だ?!」
彼は思わず素っ頓狂な声を上げた。廊下が、真っ白な煙に包まれ、
手を伸ばした先がまったく見えないのだ。
煙と言うよりは霧のようで匂いもなく、熱くもないので火事ではなさそうだ。
酔っ払っているのかと、何度も目を擦るが、視界が晴れる事はない。
顔を洗って出直そうと、オフィスに引き返そうとした途端、
少女の泣き声が一際大きく彼の耳を捉えた。
突然の異常気象?に、心細がっているのか。
「ええい、ままよ!」
歩き慣れた筈の廊下を、彼は手探りで進んだ。
奥の壁まで行き着けば、裏路地へ出る非常扉がある。
だが、視界が利かないせいか、一向に裏口に辿り着けない。
この古い貸しビルがこんなに広い筈がない。おかしい。
彼はまるで全く知らない土地を彷徨っているような気分になってきた。
こんなに酔うとは、俺も歳かな? 笑えないジョークを呟きながら、
彼は少女の泣き声だけを頼りに、ひたすら手探りで進み続けた。
漸くドアノブに手が届いた。ドアを開いた途端、彼はまた叫び声を上げた。
「……モニーク?!」
一面真っ白な霧の中に、彼は別れたままの一人娘の姿を発見し、
夢中で駆け寄った。
「モニーク、どうしてこんな所に?! ……いや、違う。君は誰なんだ?」
彼の声に、両の拳で顔を覆った少女がゆっくりと顔を上げる。似てはいるが、
娘ではなかった。彼は頭の中を周りの景色同様に真っ白にさせたまま、
しゃがみ込んでいる少女の傍らに体を屈めた。
「……おじさん、あたしのお友達を……助けて……」
「お友達?」
ふわりとした小花柄のドレスの上に、白いレースのフリルのエプロンを被り、
同じ柄のリボンでつややかな栗色の髪を纏めている。
足元はレースの靴下に真っ赤な革の靴。
見るからに上品な服装を見ると、この辺の住人ではなさそうだ。
彼は、何だかその少女とは初対面ではないような、
むしろよく知っているような気さえしていた。
だが、何時、何処で会ったのか、まるで思い出せない。今、ここに
この少女がいる事自体、現実とは思えず、信じられない気持ちだった。
「助けてって……一体、どう言う事? 君のお父さんやお母さんは?」
少女は激しく首を振るとまた拳で顔を覆い、激しくしゃくりあげた。
「ママが死んじゃって……あたし達はいろんな所に売られたの……」
「売られた、だって?!」
少女の言葉に、彼の酔いは一編に醒めた。
大事件の予感に、不謹慎にも探偵の血が騒いでしまう。

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