雨の日の子猫物語 1

written by Richiya Naitoh 2005


 その日は朝から雨だった。いつものように行き先も告げずに出て行ったままのクリスを心配して、何度も窓の側を行ったり来たりしていたラリィの目に、雨の中を小走りに駆けて来るクリスの姿が映った。
「あいつ、傘も持たずにどこ行ってたんだ!」
 ラリィはタオルを掴んで部屋を飛び出すと、階段を駆け下りながら怒鳴った。
「バカヤロウ! 風邪引いて肺炎にでもなったら、どうするんだ!!」
 ジャケットの前をかき合せるように、アパートのエントランスに飛び込んできたクリスは、全身ずぶ濡れだった。ラリィはタオルを頭から被せると、クリスの腕を引っ張って部屋に戻った。
「早く入って、体を乾かせよ!」
 その腕を振り払って、クリスは怒鳴り返した。
「放せよ! 自分で歩くってば!!」
 この二人の会話はいつもこんな怒鳴り合いになってしまうのだ。
「今、コーヒー淹れてやるからな。その濡れた服、早く着替えろよ」
 ラリィはキッチンに入って薬缶を火にかけた。クリスは濡れたジャケットの前をかき合わせたままラリィに言った。
「コーヒーより……ミルク、ないかな?」
「ミルク…? いつもは嫌いだって言ってたのに?」
 怪訝そうに振り返ると、クリスのジャケットから小さな真っ白な仔猫が「ミィ~」と、か細く鳴きながら顔を覗かせた。

 ブラッディ・サーカスは月に何度か小さなライヴハウスで演奏していたが、まだ知名度も低く、レコード会社との契約もしていなかった。クリスは、ラリィの借りている安アパートに転がり込んでいながら、度々家出を繰り返し、ラリィを悩ませていた。クリスは万引きや引ったくりや他にも色々な悪さをして、時々ラリィが真面目にアルバイトしても稼げないような大金を持って帰って来ることもあった。クリスの犯罪歴のせいで、バンドが悪いイメージになってしまう事を恐れて、ラリィはいつもクリスの素行を改めるように言うのだが、一向に聞き入れてはもらえなかった。
「……で、どうするんだ、この猫?」
 ラリィはコーヒーのカップを手に、床の上の皿から一所懸命ミルクを飲んでいる仔猫を見遣って、溜息をついた。
「どうする……って、オレが飼うんだよ」
 クリスは両手でカップを持ち、コーヒーにふうふうと息を吹きかけながら、平然と言い返す。
「俺は反対だ。どこから連れてきたのかは知らんが、居つかれない内に、捨てて来いよ」
 ラリィは苛立たしげにカップをテーブルに置くと、クリスを睨んだ。
「勝手についてきたんだよ! それにまだ小さいし、捨てたら死んじゃうよ!!」
 クリスは声を荒げて立ち上がった。椅子のガタンと倒れた大きな音に驚いた仔猫が飛び退こうとするのを、クリスは両手で胸に抱え込んだ。
「オレは飼うって決めたんだ! 名前だってもう付けたんだから!」
 仔猫を庇うように向けられた背に、ラリィは諭すように語り掛ける。
「猫なんて不衛生だ。ノミだって湧くし、抜けた毛でも吸い込んでみろ、喉がダメになっちまうだろ、少しは考えろよ」
 クリスの顔が曇った。辛そうに、絞り出すような声でクリスは呻いた。
「あんたって、いつもそうだよ……何かあるとすぐ喉、喉って……」
 どんなに素行が悪くても、ラリィがクリスを追い出したりしないのは、クリスが素晴らしい歌声の持ち主だからだ。クリスはヘヴィメタルには欠かせない、ハイトーン・ヴォイスだけでなく、どんな曲でも自分の体験を物語るようなリアルさと、聴く者を魅了する甘さとを兼ね備えているのだ。今まで、沢山のヴォーカリストとバンドを組んでも満足できなかったラリィがやっと見つけた理想の歌声を、クリスは持っていたのだった。しかし、その歌声を大切に思うが故に、ラリィはクリスの喉の健康には口うるさくなってしまう。クリスには、それが苦痛だったのだ。
「俺の気持ちより、喉の方が大事だって言うのかよ! だったらこんな喉なんか……!!」
 クリスはシンクの脇に置かれていたナイフを取り上げると、ラリィの目の前でこれ見よがしに自分の喉にナイフの切っ先を当てた。
「ルシファー……クリス! バカな真似はやめろ!!」
 ラリィはいつもクリスのことを『ルシファー』と仇名で呼ぶのだが、咄嗟にクリスの名前を叫んでいた。血相を変えてその手からナイフを奪おうとクリスに飛びつくと、二人はもつれるように床に倒れ込んだ。ラリィは渾身の力でクリスの手首を掴み、クリスの手から離れたナイフは、カラカラと虚しい音を立てて床の上に転がった。気がつくと、ラリィはクリスに覆い被さる格好で横たわり、今にも唇が合わさりそうな距離に近付いている。クリスは両腕をラリィの背に回し、潤んだ眸でラリィを見詰めた。
「……ラリィ…」
 クリスは求めるようにそっと瞼を閉じるが、ラリィはばつが悪そうに体を起こすと、クリスから離れた。
「……あの猫の貰い手探してやるよ。それでいいな。見つかるまでは、お前が面倒見るんだぞ」
 ラリィはそう言い捨てて、部屋を出て行ってしまう。クリスは憤然とその背中を睨みつけていた。

次へ


戻る


禁・無断転載/ALL RIGHTS RESERVED