夜風はジャスミンの香り 1

written by Richiya Naitoh 2004


激しく雨の降りしきる夜、森の中の小道を青年が急ぎ足で歩いていました。
彼は傘を差さず、つばの広い帽子を目深に被り、
片手で丈の長い黒いコートの襟元を押さえています。
やがて、前方に明かりが見えてきました。
目を凝らすと、森を抜けた先に家が建っているようです。
「やれやれ、助かった。雨が止むまで、あそこで休ませてもらおう」
青年は、安堵の表情を浮かべ、歩を早めました。
森の先にあるのは小さな集落でした。しかし、驚いたことに、
どの家にも明かりが灯っておらず、朽ちている家もあります。
住人や家畜の気配もありません。その先に小高い丘があり、
その上に村を見下ろすように大きな館が建っていました。
彼が見つけた明かりは、その館の物でした。
「はて、ここは廃村のようだが、誰が住んでいるのだろう?」
青年は不思議に思いましたが、一刻も早く冷え切った体を温めたくて、
玄関の石段を駆け上がると、重そうなノッカーに手を伸ばしました。
指がドアに触れるか触れないかの内に、中からドアが開けられました。
驚いて手を引いた青年の鼻を、甘い芳香がくすぐりました。
「こんな夜更けに、どなたですか?」
意外にも、若い男の声でした。
蝋燭を手にドアの隙間から、予期しない来訪者を窺っています。
青年は雫の滴る帽子を取り、会釈しました。
「突然すみません。旅の者ですが、この雨に濡れてすっかり
冷え切ってしまいました。雨宿りさせて頂きたいのですが……」
青年は精いっぱいの笑顔を向けました。
緩い巻き毛の黒髪からも雨の雫が滴り、
長旅の無精ひげのせいで、いかにも怪しげな風体に、
追い返される事を恐れたのです。
しかし、館の住人は、すんなりと彼を受け入れたようです。
「それは難儀なさいましたね。どうぞお入りなさい」
青年を迎え入れたのは、上等な黒い絹の衣服を身につけた、
少女のような華奢な体つきの、それでも青年よりもずっと年齢を
重ねたような落ち着きのある、不思議な少年でした。
銀に輝く髪に雪のように真っ白な肌、しかし
真っ白な長い睫に縁取られた瞳はルビーのように真っ赤なのでした。
「こちらへどうぞ。そのままでは、風邪を引いてしまいますよ」
彼が動くと、やはり甘い芳香が漂います。
それは、ジャスミンの花の香りでした。
不思議な少年が青年を案内した先は、お風呂でした。
「濡れた衣服を脱いで、湯で体を温めて下さい」
「そんなにして頂いて……どうぞあなたに神のご加護がありますように」
青年は思いがけない歓待に感激しつつ、コートを脱ぎました。
コートの下に着ているのは、神父服でした。
首には大きな十字架を下げています。
「あなたは神父様でしたか。こんな寂れた場所へどうして?」
気のせいか少年の顔が強張っていました。
若い神父はそれに気付かず、顔を背向けて頭を掻きました。
「お恥ずかしい話ですが、日頃の素行の悪さがたたって、
教会を追い出されました。修行をやり直せと命じられて、
古い村の教会に向かうところでして……」
「そうでしたか。どうぞゆっくりと疲れをお取り下さい」
少年はふっと表情を和らげ、出て行きました。

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